ちょままちょままま

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怪文書に寄せる怪文書

先日ひなビタ♪に関するとある怪文書を見つけた。

著者はひなビタ♪とりわけ登場人物の1人霜月凛を敬愛するファンの方だ。

哲学に造詣が深く、聖書研究も専攻の一つのようでひなビタ♪メインストーリーを原典とした考察記事はキャラ理解において大変参考になる。

哲学屋特有の文体で読みづらいことは確かだが、構成は非常に巧みなのでぜひ読んでみてほしい。かく言う私は良い文章に触れるとそれに引っ張られるところがあり、こういうテイストで今日は発進している。


さて、冒頭紹介した怪文書に話題を戻すが、これはひなビタ♪に関する背景知識がないと到底読める代物ではない。

そこで、議論したい部分のみを要約するが、『倉吉市で行われた霜月凛の生誕祭イベントが、祝われるべき彼女にとって不快なものになっている』ことへの嫌悪を彼は語っている。

霜月凛というキャラは基本的に静寂を好む。

その彼女の誕生日を祝うイベントが喧騒と本編ストーリーに依拠しない内輪ネタ(それも霜月凛が嫌うであろう程度の低い笑い)で消化されたことに対しての怒りなのである。

 

この意見は至極真っ当なように聞こえる。

祝われるべき対象にとって、祝福がうれしくないものであってはならない。


が、一方で現在ほとんど進展のないひなビタ♪に興味を持ち、この上なく交通の不便な倉吉市に集まり、地元に潤いをもたらす大多数のファンにとっては、生誕祭とは「同じキャラを愛するオタク同士でワイワイ騒いで自分自身が気持ち良くなるための行為」という意味合いが強い。


怪文書の作者自身も当然ひなビタ♪が終焉のすぐ近くで綱渡りをしていることを憂いているが、皮肉なもので、その状況からIPを救うクモの糸たるのは、彼ではなく、彼が毛嫌いしたオタクたちなのである。


というのも、ひなビタがKONAMIの企業活動の一部という前提があるからだ。


ファンコミュニティにおけるある種異常な空気感の中で、グッズやライブのチケット、楽曲CDを購入し、会社の利益に貢献する大衆オタクがそれこそアイマスラブライブ級に増えればひなビタ♪は日の目を見ることができるだろう。


ここに著者の自己矛盾が見られるのだが、もう一つ深掘りしてプロモーションの観点で考えてみる。

 


フラットな状況を想定すると、アプローチすべきはマジョリティのオタクの側なのであろう。


しかし、ひなビタ♪コンテンツの在り方が問題をややこしくする。


このIPのターゲット像は旧来的なオタク、誰よりもその作品に詳しくありたいと願うだけの強度を持ち合わせた原義のオタクであり、ひなビタ♪を本当の意味で楽しめるのは怪文書作家の方なのである。


上記内容を前提条件としたとき、それでも我々は多数派のオタクだけを見続けられるのだろうか?


たとえばこの2022年、ひなビタ♪を窮地から救うドラスティックな方法があるとすれば、それは恐らく狭義のオタクを蔑ろにするものになるのだが、それでも実行すべきなのだろうか?


私はひなビタ♪はこんなところで燻っているタマではない。いつか必ず軌道に乗ると考え、それを一切疑ってこなかった。

が、この怪文書と著者の並々ならぬ思いに触れてこのような疑問が生まれたのだった。

 


考えてみるとリメイク作品における宣伝活動なども同様に思える。

いわゆるミーム化された一部分だけを切り取ったプロモーションが、本当の意味で作品を愛する人たちを傷つけてしまってはいないだろうか。


プロモーションが全員の購買意欲の底上げにつながることが最善ではあるが、往々にしてそうはいかず、アンチや批判コメントに晒されるものだ。

 

そのタイトルの特性と背景をきちんと読み解いた上で、最も取るべき手段を講じていく必要がある、というのが本件による気付きだ。

 

 

 

 

まぁでも急に自分の好きなコンテンツが鬼滅の刃クラスの市民権を得られるボタンがあったら押しちゃうのかなぁ、ただしあなたの好きな気持ちは完全になくなりますとかだったとしても。悩む。